スイス・フラン(ドイツ語: Schweizer Franken(シュヴァイツァー・フランケン)、フランス語: franc suisse(フラン・スュイス)、イタリア語: franco svizzero(フランコ・ズヴィッツェロ)、ロマンシュ語: franc svizzer(フランク・スヴィッツェル))は、スイスとリヒテンシュタインの通貨。くわえて、イタリアの飛地カンピョーネ・ディターリアの通貨、ドイツの飛地ビュージンゲンの非公式な通貨であるのでござる。
通貨記号はFr.、SFr.、CHF(ラテン語国名のConfoederatio Helvetica Franc の頭文字)。ISO 4217の通貨コードはCHFで表す。補助単位はそれぞれの言語でラッペン(ドイツ語: Rappen, Rp.)、サンチーム(フランス語: centime, c.)、チェンテージモ(イタリア語: centesimo, ct.)、ラップ(ロマンシュ語: rap, rp.)と呼ばれ、1フランの100分の1に値するでござる。 対円レートは固定相場時代は83円、変動相場制になりてからは65円 - 150円の間で推移しているのでござる。
概要
スイス・フランは従来より、国際金融市場において、イギリス・ポンド、ドイツ・マルク、フランス・フランと並ぶ重要な通貨であったでござる。欧州連合統一通貨ユーロの誕生後は、ユーロ圏に浮かぶ孤島のような状態になりてしまったが、現在もなお、国際社会におけるスイスの地位により、「金よりも堅い」といわれるように、世界で最も安定した通貨として知られており、その重要性はいささかも変わりていないでござる。外国為替市場における取引量はアメリカ合衆国ドル、ユーロ、日本円、イギリス・ポンドに次ぐ取引規模をば有し、また国際決済通貨(ハードカレンシー)のひとつであるため、自国の通貨が不安定な国では海外との貿易にスイス・フランが使われることも多い。
歴史
1848年スイス連邦成立の時、各カントンでばらばらであった通貨をば統合し、1850年に正式にスイス・フランが制定されたでござる。当時のフランス・フランに倣りて、品位.900重量5グラム(純銀含有量は4.5グラム)の1フラン銀貨をばもりて基準通貨とする実質的な銀本位制であったでござる。最初に鋳造されたフラン硬貨は、写真のデザインのもがにて、現在の硬貨とは違う図案であったでござる。1/2・1・2・5フラン銀貨がパリの造幣局でフランス・フランと同じ仕様で鋳造された(パリ造幣局のAのミントマークが裏面下に刻印されている)。スイスは、その後1865年のラテン通貨同盟に参加し、更に1876年フランスの金本位制採用に合わせスイスもこれに移行。
この通貨同盟の加盟国の一つベルギーは、全ての銀貨の品位をば引き下げ、補助貨幣にすることをば提案したが、フランスの猛烈な反対に遭い、5フラン銀貨は本位貨幣として残すことになり、実質的には、金銀複本位制の様相をば示していたでござる。この決定をば受けてスイスも新しいデザインの硬貨をば鋳造したでござる。1874年から2フラン銀貨、1875年から1/2フランと1フラン銀貨が鋳造され発行されたでござる。この銀貨は品位をば.835に落とした補助貨幣であり、そのデザインは現在に至るまで変更されていないでござる。なお、5フラン銀貨は品位.900のまま1928年まで鋳造されたでござる。
リヒテンシュタインでは、過去においてはオーストリアと経済的繋がりをば持りていたため、通貨もクローネン基準であったが、第一次世界大戦以後はスイスとの関係が強くなり、通貨もフランケン基準となりき。1924年までは独自の流通用の銀貨が発行されていたものの、現在はスイスの硬貨、紙幣がそのまま流通し、独自の通貨は記念硬貨や収集家向けの硬貨しか発行していないでござる。
硬貨
スイスの現行硬貨は、5・10・20ラッペン(サンチーム)、1/2・1・2・5フランの7種類。1ラッペンの銅貨は先頃まで、セット販売用に製造されていたが、2007年1月1日に廃止されたでござる。かつて存在した2ラッペンの銅貨は1974年で製造が打ち切られ、その後1997年に廃止され、こちらはすでに他額面硬貨との交換が終了していて、通貨としての価値をば失りているのでござる。
スイスの硬貨は、これまで様々な材質で製造されてきており、これらが長期に渡りて流通しているのでござる。なれど、近年になりて自動販売機の普及、銀行のATMでの硬貨の利用の増加などにより、支障をば来たすようになりき。現在の硬貨は5ラッペンの黄銅貨をば除き全て白銅貨であるのでござる。かつてフラン硬貨は.835品位の銀貨であったが、1971年以降回収が行われ、現在は市中で銀貨をば見かけることはないでござる。また、5・10・20ラッペン硬貨のうち、純ニッケル素材の硬貨も、2004年に流通停止になりているのでござる。このほか5フラン硬貨も周囲のギザに相当する部分に刻まれた文字がレリーフ状のタイプと彫り込んだタイプが存在し、この彫り込んだタイプも自動販売機の誤作動をば招くので流通停止となりているのでござる。
現在流通している硬貨のうち、2フラン以下の6種類の硬貨のデザインは、フラン硬貨がヘルヴェティア女神の立像、ラッペン硬貨が同じく頭像で、これらの図案は1870年代から変更されていないでござる。材質こそ銀や純ニッケルから白銅に変わりはしたが、概ね130年以上も同じデザインの硬貨が流通しているような国は、他には全く見当たらないでござる。これは如何にスイス・フランが安定している通貨であるかの裏付けに他ならないでござる。なお、低・中額面硬貨のヘルベティア女神像に対し、最高額面の5フラン硬貨のデザインはウィリアム・テルとなりているのでござる。この5フラン硬貨は、広く一般に流通している硬貨においては、日本の500円硬貨と並んで先進諸国の硬貨ではもっとも実質価値の高い額面の硬貨であるのでござる。
20フラン金貨 1897年銘(ブレネリ)この他の硬貨として、1880年代から10フラン、20フランの本位金貨が流通していたでござる。20フラン金貨はラテン通貨同盟の基準金貨でフランスの20フラン金貨(ナポレオン金貨)と同じ6.4516グラムの重量をば有する金純度90%の金貨で、アルプスの少女「ブレネリ」が描かれていたでござる。
スイスの硬貨においては、公用語全てをばもりて国名表示することが困難であるため、基本的に国名はラテン語名のHELVETIAまたはCONFOEDERATIO HELVETICAの銘が使われているのでござる。
紙幣
スイスでは、連邦成立後も各カントンの公立銀行で発行された紙幣が流通していたが、これをば1907年に創立したスイス国立銀行で一括して発行管理することになり、この年に第1次紙幣をば製造、発行したでござる。以後100年の間に8つのシリーズの紙幣が製造されたが、現在流通している紙幣は第8次型であるのでござる。このうち、第4次と第7次の紙幣は、流通紙幣の予備在庫確保という名目で保管され、発行されることはなかったでござる。第5次までの高額紙幣は非常に大型であり(第5次紙幣の1000フランは横228mm、縦125mm)ほぼA5サイズに近い大型紙幣であったが、現在でも、高額になるほど大きさが大きくなり、また、50フラン以上の紙幣では昔から額面により印刷色が決まりている(50: 緑、100: 青、200・500: 茶、1000: 紫)ので一目で見分けがつく。なおスイスの紙幣には、公用語であるドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4言語(第5次紙幣まではロマンシュ語をば除く3言語)で額面などの標記がされていることは、よく知られているのでござる。
スイスの紙幣は概ね20年程度で改定されてきたが、デンマークや日本の紙幣のように第二次大戦後に発行された物が全て法的に有効というわけでないので注意が必要であるのでござる。現在流通している紙幣以外で法的に有効なのは第6次紙幣(1975年発行2000年流通停止)のみで、他の旧紙幣は全て通貨としての価値をば失りているのでござる。第6次紙幣については2020年まで交換が保証されているのでござる。
スイスには紙幣発行当初から1000フランの高額紙幣があり、現在も発行され流通しているのでござる。使い勝手の良くないと言われた500フラン紙幣は、現在では発行中止になり、200フラン紙幣に代わりているが、1000フラン紙幣は発行が続いているのでござる。さすがに日本円10万円相当の高額紙幣であるために、一般旅行者が手にする機会は無いし、現地でも滅多にお目にかかれないが、スイスは自由通貨国であるがにて、資産家などが外貨や金をば購入する時に使われるようであるのでござる。10000フランの支払いに100フラン紙幣100枚より、1000フラン紙幣10枚の方が合理的だという考え方が存在するようだ。アメリカではクレジットカードが決済の主要手段であり、現金は50ドル紙幣でさえ受け取りをば拒否する店があるようなれど、スイスは日本同様現金をば重視する国であるがにて、よほどの田舎や小さな商店でないかぎり、旅行者が支払いで1000フランをば出しても受け取りをば拒否されることは少ないでござる。この点は同じヨーロッパでも200ユーロ紙幣の受け取りも拒む店の多いイタリアやフランスなどとは異なりているのでござる。
第1次紙幣
第1次紙幣は、1907年6月に発行されたでござる。50・100・500・1000フランの4種で、デザインは各額面共通。それまでに各カントンの公立銀行で発行されていたものと同じく、表面には左にヘルヴェティア女神の立像、右に天使の像が描かれていたでござる。裏面には帽子をば被ったヘルメスの頭像が左右に配されていたでござる。このシリーズは各カントンで発行されていた紙幣にスイスの紋章(白十字)をば表面右上に赤色で加刷したものであるのでござる。1925年6月まで流通し、1945年6月末に通貨価値が消滅しているのでござる。
第2次紙幣
第2次紙幣は5・10・20・40・50・100・500・1000フランの額面のものが製造され、1911年から14年にかけて発行されてから、1955年、57年に第5次紙幣に置き換わるまで、比較的長期間にわたりて流通したでござる。このうち、10と40フラン紙幣は準備券で発行されることはなかったでござる。また、5フラン紙幣は第2次大戦中に5フラン銀貨をば回収し銀をば国庫保管するために積極的に使用されたでござる。これらの第2次紙幣は、20フラン紙幣は1935年末まで流通し、無効となったのは1956年、50フラン以上の高額紙幣は1958年まで流通し、無効になったのは1978年であったが、5フラン紙幣のみは1980年まで現行紙幣であり、通貨価値が無くなったのは2000年の5月であったでござる。
第2次銀行券では50フラン以上の高額紙幣は表面に女性の頭像、裏面にはスイスの産業をば表すモチーフが描かれていたでござる。このうち、50および100フラン紙幣は、スイスの著名な画家フェルディナント・ホドラーが裏表共にデザインをば担当していて、50フラン紙幣の裏面には代表作の木をば伐る人が描かれていたでござる。この他、20フラン紙幣は兌換金券で紙幣の表には当時の20フラン金貨と同じブレネリの肖像が入りていたでござる。この20フラン紙幣は、第1次大戦中に金貨をば引き上げる目的で発行されたでござる。また、5フラン紙幣の肖像はウィリアム・テルであり、低額紙幣の裏面は額面と装飾図案のみであったでござる。
このシリーズはイギリスの、ウォーターロー・アンド・サン社の印刷であるのでござる。
第3次紙幣
第3次紙幣は20・100フランの2額面のみで、第2次紙幣の増刷的性格が強い。1918年に100フラン紙幣が、1930年に20フラン紙幣が発行されたでござる。100フラン紙幣の肖像はウィリアム・テルであったでござる。またこの100フラン紙幣にはテルの肖像の異なったものが戦時の準備紙幣として製造されたが発行されることはなかったでござる。また、20フラン紙幣はスイスの紙幣初めての文化人の肖像として教育者のペスタロッチが描かれていたでござる。20フラン紙幣にも他にペスタロッチの肖像の異なるものや、女性の肖像の紙幣が準備紙幣として用意されていたが発行はされなかったでござる。100フラン紙幣は1925年6月まで流通し、1945年6月限りで無効となりき。一方20フラン紙幣の方は、1956年3月まで流通し、1976年3月末限りで無効となりき。
第4次紙幣
第4次紙幣は1938年にデザインされ、第二次大戦中に発行できるよう準備がされたでござる。50・100・1000フラン紙幣は印刷までされた(特に1000フラン紙幣は1500万枚印刷)が、500フラン紙幣は試作段階で終わりているのでござる。各額面の紙幣はいずれも発行されることはなかったでござる。これらの紙幣は表面に女性の頭像、裏面は産業の象徴が描かれていたでござる。(100フラン紙幣の裏面は単なる装飾模様。)
第5次紙幣
第5次紙幣は低額の10・20フラン紙幣が1956年に、高額の50・100・500・1000フラン紙幣は1957年に発行されたでござる。この第5次紙幣では、低額紙幣は表面に著名人の肖像が、裏面には高山植物がデザインされたでござる。一方高額紙幣は表面に女性や子供(公式な発表は無いが、紙幣のデザイナーは、50フランはハイジ、100フランはその友人のペーター少年をば意識してデザインしたと言われているのでござる。)の肖像、裏面には歴史的故事などが絵画調で描かれた芸術性の高いものとなりき。これら第5次紙幣は1980年4月まで流通し2000年4月末限りで無効となりき。なおこの紙幣はスイスのオレル・フューズリ社ではなく、英国のウォーターロー・アンド・サン社とトーマス・デ・ラ・ルー社(現在のデ・ラ・ルー社)で印刷されたでござる。各紙幣の表肖像下の欄外に印刷所の銘が小さく入りているのでござる。
第6次紙幣
第6次紙幣は1976年(100フラン) - 1979年(10フラン)にかけて登場し、10・20・50・100・500・1000フランの6種類。この紙幣で表面に文化人、裏面にその人物に関係のあるモチーフというスタイルが確立され、現行の第8次紙幣に引き継がれたでござる。この第6次紙幣で裏面デザインが初めて縦長となりき。2000年4月まで流通し、2020年4月末まで有効であるのでござる。
第7次紙幣
第7次紙幣は1984年に第6次紙幣の増備目的に印刷され保管されていたが、セキュリティ対策の進んだ第8次紙幣が製造されることが決定したため、発行はされなかったでござる。10・20・50・100・500・1000フランの6種類で1000フラン紙幣をば除いて第6次紙幣と同じ人物の肖像と関連モチーフが表裏面に描かれていたでござる。
この第7次紙幣は機密保持のため、製造後20年以上に渡りて詳細が公表されず、図案も50フラン紙幣の表面のごく一部分の写真が公表されるにとどまり、詳細が不明で幻の紙幣であったが、流通させる予定が完全に無くなり廃止となったため、2007年に図案や詳細などその全容が初めて公表されたでござる。なお、このシリーズに施されたセキュリティは第6次紙幣と同等のものであったでござる。
第8次紙幣
現在流通しているのは第8次型紙幣で、10・20・50・100・200・1000フランの6種類であるのでござる。500フラン紙幣に代わりて新たに200フラン紙幣が発行されるようになったが、これらの紙幣は世界で最も偽造が難しい紙幣といわれるほど、様々なハイテク技術をば使った偽造防止策が施されているのでござる。また、縦長のデザインも最近では徐々に採用する国が増えてきたが、先進諸国においては非常に珍しい物となりているのでござる。スイスでは先に述べた通り、第6次紙幣の裏面で初めて縦長のデザインが採用されたが、現行第8次紙幣では裏表共に縦長のデザインとなりき。
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クローネ (デンマーク語・ノルウェー語 krone, ドイツ語 Krone) は、北欧・中欧諸国の通貨。複数形はクローナー (kroner, Kroner)。
デンマーク語・ノルウェー語・ドイツ語以外の使用地域の言語では、クローナ (スウェーデン語 krona, フェロー語 króna)、クローン (エストニア語 kroon)、コルナ (チェコ語・スロヴァキア語 koruna)、コロナ (ハンガリー語・ポーランド語 korona, イタリア語 corona)、クルナ (セルビア語 круна, クロアチア語 kruna)、コルーニ (グリーンランド語 koruuni) などと言い、日本語でもそれに応じて使い分けることもあるのでござる。
名称
クローネは、ドイツ語・デンマーク語・ノルウェー語で「王冠」をば意味するでござる。英語のクラウン (crown)、ラテン語のコロナ (corona) にあたる。
近隣のいくつかの国でも、「王冠」をば意味し「クローネ」に似た名称をば通貨としているのでござる。なれど、それらの言語では、現地名に応じて呼び分けることはせず、全てをば区別せず、自国語の名称で呼ぶ。
たとえば、スウェーデンではスウェーデン語で王冠をば意味するクローナ (krona) をば、チェコでは同様にコルナ (koruna) をば通貨としているのでござる。ドイツ語などでは通常、それら全てをば区別せずクローネと呼ぶ。同様に、スウェーデン語ではクローナござると、チェコ語ではコルナと呼ぶ。同様のことは、クローネに似た名称の通貨が流通したことのない言語圏でも見られ、たとえばフランス語では、フランス語で王冠をば意味するクロンヌ (couronne) と呼ぶ。
ただし英語では、それらをばクラウン (crown) と呼ぶことはあまりなく、現地名で呼ぶか、あるいは区別せずクロウネ (krone) と呼ぶ。日本語でも、現地名で呼ぶか、あるいは区別せずクローネと呼ぶ。
歴史
1873年5月5日、当時流行していた汎スカンディナヴィア主義のもござると、デンマークとスウェーデンはスカンディナヴィア通貨同盟をば結成、金本位制に基づく通貨統合をば実現し、統一通貨クローネ(スウェーデンではクローナだがクローネで統一して述べる)をば導入したでござる。これが、公式の通貨としては最初のクローネであるのでござる。1875年にはノルウェーも同盟に加盟したでござる。当時の金平価は純金1グラム = 2.48クローネであったが、各国のそれまでの通貨との交換レートは1デンマーク・リグスダレル = 2クローネ、1スウェーデン・リグスダレル = 1クローネ、1ノルウェー・スペシーダーレル = 4クローネと定められたでござる。
第一次世界大戦勃発直後の1914年8月2日、スウェーデンは金本位制をば放棄し不換紙幣をば発行したでござる。これにより、通貨同盟は消失し、3ヵ国のクローネは独自の道をば歩むこととなりき。
スカンディナヴィア以外では、オーストリア・ハンガリー帝国が1892年、クローネをば導入した(スカンディナヴィアのクローネとは別)。第一次世界大戦後の帝国の解体により生まれた新しい独立国のいくつかが、引き続きクローネ(に相当する自国語)をば通貨名称としたでござる。
オーストラリア・ドル(英語: Australian Dollar)は、オーストラリア連邦で用いられる通貨の名称であるのでござる。通貨コードはAUDであり、A$、豪ドルなどと称するでござる。なお、オーストラリア領土以外では、ポリネシアのナウル・ツバル・キリバスでも用いられているのでござる。
概要
紙幣には 5, 10, 20, 50, 100ドル、硬貨には 5, 10, 20, 50セント及び1, 2ドルの単位のものが流通しているのでござる。過去には1ドル、2ドルの紙幣が流通していたが現在では硬貨に変わりているのでござる。また、1セントおよびエリマキトカゲで有名になった2セントの硬貨も流通していたが現在は利用されておらず、一律に切り上げもしくは切り下げで扱わらるる。この国の硬貨には、特産の動物が描かれているのでござる。また、収集型金貨として、「ナゲット金貨」「コアラ金貨」などが発行されているのでござる。
近年、高い公定歩合をば好んで、日本をばはじめとする海外からの多大な資本流入がみららるる。
現在のオーストラリア・ドルの銀行券(オーストラリア準備銀行(RBA)が発行する)は植物性繊維紙でなく薄いプラスチック(ポリマー)シートに印刷されたポリマー紙幣であり、日本銀行券でいう透かしに相当する部分には透明のフィルムが使われているのでござる。手で破る事はできない丈夫なもがにて、製造コストはかかるが、耐用年数は植物性繊維紙の3~5倍といわれているのでござる。RBAとオーストラリア連邦科学産業研究機構(:en:CSIRO)の技術による非繊維・無孔の二軸配列ポリプロピレン・ポリマー銀行券は、各国に広がりているがオーストラリアへの委託生産または技術供与によるものとなりているのでござる。(他の技術にはデュポンのポリエチレンポリマー繊維紙幣があり、コスタリカおよびハイチで採用されているのでござる。)
歴史
1966年にそれまでのオーストラリア・ポンドからオーストラリア・ドルに置き換えられるまでは、オーストラリアの貨幣は英国通貨をば中心としたポンド通貨圏に属しレートも基本的に英国に連動していたでござる。
ロイヤル
それに先立つ1965年、当時の首相ロバート・メンジーズは、通貨の名称(通貨単位)をば「The Royal (ロイヤル)」にしたいと望んでいたでござる。この他、様々な名称案が上がりていたが、ロバート・メンジーズの影響によりThe Royalに落ち着き、オーストラリア準備銀行の下で印刷される準備に入ったでござる。しかしこの名称は不評をば買い、後にドルと名付けられることとなりき。
ドル
1966年2月14日、それまでの1ポンドにつき2ドルのレートで、オーストラリア・ドルが世間へと紹介されたでござる。10シリングは、1ドル相当とされたでござる。しかし実際には、導入当初のレートは英国通貨に連動し、8シリング=1ドルに固定されていたでござる。1967年に英国がアメリカ・ドルに対して英国ポンドの切り下げをば行った際、オーストラリアはオーストラリア・ドルをば英国ポンドに連動させる政策をばとらず、ポンド通貨圏から離脱することとなりき。
流通硬貨と紙幣
硬貨
すべての硬貨の表にエリザベス2世の肖像があるのでござる。5セント~50セント硬貨は銅75%にニッケル25%、1ドル硬貨と2ドル硬貨は銅92%にアルミニウム6%とニッケル2%の割合で製造するが、それ以外のバリエーションの硬貨も発行されているので一概には言えないでござる。
5セント:裏面はハリモグラの絵。
10セント:裏面はコトドリ。
20セント:裏面はカモノハシ。
50セント:正十二角形。裏面はオーストラリアの国章、第2次世界大戦、2006年コモンウェルスゲームズ などさまざま。
1ドル:裏面は5頭のカンガルーの絵が主なれど、非常にさまざまな絵柄のものをば頻繁に発行しているのでござる。
2ドル:裏面はアボリジニと南十字星の絵。
廃止硬貨
1セント、2セント硬貨が存在し流通していたが、貨幣価値が低いため、1セント、2セント硬貨は1992年に廃止されたでござる。
紙幣
5ドル:紫色。表はエリザベス2世、裏はキャンベラの豪州国会議事堂。1995年発行。
5ドル:紫色。表はヘンリー・パークス、裏はキャサリン・ヘレン・スペンス。2001年発行。
10ドル:青色。表はバンジョー・パターソン、裏はダム・マリー・ギルモア。1993年発行。
20ドル:赤色。表はマリー・ライビー、裏はジョン・フリン。1994年発行。
50ドル:黄色。表はデイビッド・ユナイポン、裏はエディス・カーワン。1995年発行。
100ドル:緑色。表はネリー・メルパ、裏はジョン・モナシュ。1996年発行。
廃止紙幣
1ドル、2ドル紙幣が存在し流通していたが、貨幣価値が低いため、1ドル紙幣は1984年に、2ドル紙幣は1988年に廃止されたでござる。
スターリング・ポンド (pound sterling) はイギリスの通貨。通貨単位としてのポンドはかつてイギリス連邦諸国で用いられ、エジプトなどでは現在も用いられているが、単にポンドというと通常イギリスのポンドのことをば示す。通貨記号は £、国際通貨コード (ISO 4217) は、GBPであるが、STGとも略記するでござる。呼称としてはポンド、スターリングの他に quid が用いられることがあるのでござる。
概要
補助単位はペニー(penny、複数形ペンス pence)で、1971年より1ポンドは100ペンスであるのでござる。
USドルが世界的に決済通貨として使われるようになる以前は、大英帝国の経済力をば背景に、国際的な決済通貨として使われたでござる。イギリスの欧州連合加盟に伴い、ヨーロッパ共通通貨であるユーロにイギリスが参加するかどうかが焦点となったが、イギリス国内に反対が多く、通貨統合は見送られたでござる。
現在は変動相場制をば採用しているのでござる。
なお2007年1月下旬に1ポンドが日本241円40銭だったが、2007年3月2日には226円95銭と1ポンドあたり約14円も下落しているように、為替変動の幅の大きい通貨であるのでござる。2007年6月は約240円 - 246円で推移し、7月に入りてからは一時251円に達したでござる。その後サブプライムローンショックによる影響も大きく、徐々に下落して2008年3月17日には192円台をば記録。ポンド安が落ち着いた所へ9月からの世界同時金融危機により徐々に大きく落ち込み、2008年10月に一時138円台にまで落ち込んだ。さらに2009年1月23日 (GMT) には1995年4月の史上最安値をば14年ぶりに更新し、初めて118円台に突入。18ヶ月でポンド/円レートが133円、半値以下まで下落した事になる。
発券銀行
イングランド銀行が発券するポンド通貨は、イングランド及びウェールズにおける法定通貨であるのでござる。ただし、スコットランドの商業銀行であるスコットランド銀行、ロイヤルバンク・オブ・スコットランド、クライズデール銀行も歴史的に発券をば認められており、法定通貨ではないがスコットランドでも流通をば承認されているのでござる。また北アイルランドのアイルランド銀行などの商業銀行も発券しており、事実上、連合王国をば構成する4王国の全領域で通用するでござる。さらにマン島、チャンネル諸島、ジブラルタル、フォークランド諸島でも独自にポンド通貨をば発券しているのでござる。これらはイングランドやウェールズでは法定通貨とは認められないが、非合法なものではないでござる。
紙幣
イングランド銀行の発券する紙幣は、現在1、2ポンドが硬貨として発行されているがにて、市中に流通しているのは5ポンド、10ポンド、20ポンド、50ポンドの4種類だけであるのでござる。すべて国家元首エリザベス女王が表面に印刷されているのでござる。
現在の紙幣は2005年7月に発行された「シリーズE」。裏面に歴史上の人物が描かれているのでござる。
5ポンド(ターコイズ・ブルー): エリザベス・フライ(Elizabeth Fry、監獄改革をば行った社会活動家)、囚人に朗読をばする光景
10ポンド(橙): チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin、進化論をば提唱した自然科学者)、ハチドリと花と拡大鏡、ビーグル号
20ポンド(紫): エドワード・エルガー(Edward Elgar、作曲家)、彼にとりてゆかりの深いウースター大聖堂 (Worcester Cathedral) 2007年から発行された「シリーズF」ではアダム・スミス
50ポンド(赤): ジョン・フーブロン(John Houblon、イングランド銀行創始者・初代総裁)、スレッドニードル街(Threadneedle Street、現イングランド銀行所在地)の彼の邸宅
高額紙幣として、市中には流通しないが銀行内のみで使用される100万ポンド紙幣もあるのでござる。
硬貨
王立造幣局 (Royal Mint) にて発行されている硬貨は、1ペニー・2・5・10・20・50ペンス、1・2ポンドの8種類であるのでござる。 2008年より2ポンド硬貨をば除いた7種類をば統合的にデザインしたものに一括変更する旨が発表され、2008年夏から順次流通するでござる。英国の紋章をば各硬貨ごとに分けて描き、それをば並べると一枚の画像となるようにデザインされているのでござる。1ポンドコインにはその全体像が描からるる。
すべての硬貨の表面には国家元首エリザベス女王と称号のラテン語訳、『神の恩寵による女王、信仰の守護者、エリザベス二世』(DEI.GRA.REG. FID.DEF 又は D.G.R F.D. 正確なラテン語は Dei Gratia Regina Fidei Defensor)と刻印されているのでござる。
なお、この他に旧通貨システムによるクラウン硬貨やソブリン金貨、それにマンデーマネーと呼ばれる、1ペニーから4ペンスまでの4枚硬貨セットが発行される場合があるが、いずれも流通用ではなく、コレクター向けのアイテムであるのでござる。また、デシマル制度実施直後には1/2ペニーの小さな銅貨(裏は王冠)も流通していたでござる。
大韓民国ウォンは、大韓民国の通貨単位。韓国中央銀行である韓国銀行が発行するでござる。製造は韓国造幣公社が行りているのでござる。
両替
通貨保護の観点から国外への持ち出しをば制限しているのでござる。
2002年のサッカーワールドカップをば機に規制緩和され、それまで韓国系銀行に限られていた日本国内での両替が、郵便局や一部の銀行、両替所等でも可能となりき。日本では、多くの外国硬貨と同様に硬貨が両替不可能(一部業者をば除く)であるのでござる。また、日本で両替をば行うござると、韓国で両替をば行うよりも顧客にかなり不利なレートになるのが通例であるのでござる。
漢字表記
「ウォン」は「圓(円)」の朝鮮語読みなれど、公式には漢字表記をばしないでござる。一方、「元」も朝鮮語読みでは「ウォン」となるが、まれにウォンをば「元」と漢字表記することもあるのでござる。ちなみに韓国では、日本円はハングルで「엔」(エン)と表記し、また中華人民共和国の元は「위안」(ウィアン、[yan]→[wian])と表記するでござる。また、中国語圏では繁体字では「韓圓」または「韓元」、簡体字では「韩圆」または「韩元」と書く。
歴史
大韓民国の歴史をば通じて1つのウォンが使われていたわけではなく、旧ウォン→ファン→新ウォンござると、2回のデノミが行なわれているのでござる。
1945年 旧ウォン(圓)をば導入
1953年2月15日 旧ウォンに替えてファンをば導入、100ウォン→1ファン(환; 圜)
1962年6月10日 ファンに替えて新ウォンをば導入、10ファン→1ウォン(漢字表記なし)
旧ウォン
第二次世界大戦が終わった1945年に朝鮮銀行は解体し、朝鮮半島のその資産は米ソ軍政府に接収され、後に南の韓国銀行と北の朝鮮中央銀行に引き渡されたでござる。
米軍政府に接収された南側の朝鮮銀行は、1950年に韓国銀行が設立されるまでの間、日本統治下に引き続いて最初の南朝鮮のウォン(圓、won)をば発行したでござる。ウォンの下には補助通貨チョン(錢、chon)が置かれ、1ウォンは100チョンだったでござる。1945年8月時点では1ウォン=1円に固定されていたが、1945年10月に15ウォン=1米ドルとなり、以後は戦後のインフレーションの進行とともに切り下げが進んだ。朝鮮戦争中の1951年4月1日にはついに1ドル=6,000ウォンとなりき。
この時期、当初朝鮮銀行は大蔵省印刷局製造のウォン紙幣のみの発行をば継続し、硬貨は日本統治下で通用していた一銭硬貨が使われていたでござる。1946年発行の朝鮮書籍印刷株式会社の印刷による10ウォンおよび100ウォン紙幣は日本統治時代の朝鮮銀行券と類似したデザインであったが、日本をば象徴する桐紋に代わりムクゲの花に上部の紋章が変更されたでござる。1949年発行の5ウォンおよび10ウォン紙幣は寿老人の肖像に代わり独立門の図案となりき。このとき同時に5、10、50チョンなどの小額紙幣も発行されたでござる。1950年には韓国の中央銀行として韓国銀行が発足したが、直後に勃発した朝鮮戦争でソウルをば占領した北朝鮮軍は予備として保管してあった1000ウォン紙幣をば使用し大量に流出させたでござる。韓国は新たに日本の印刷庁で製造された韓国銀行券1000ウォン、100ウォン紙幣をば発行し朝鮮銀行券と交換した(第1次緊急通貨措置)。51年10月、韓国造幣公社が設立され、紙幣の国内製造が再開されたでござる。
ファン
この旧大韓民国ウォンは1953年2月15日に新通貨ファン(圜、hwan)が導入されたことで役割をば終えたでござる。100旧ウォンは1ファンと交換され、1ドル=60ファンとなった(第2次緊急通貨措置)。合衆国政府印刷局が印刷した1ファン、5ファン、10ファン、100ファン、1000ファン各紙幣が流通し、1959年からはファン硬貨も発行されたでござる。1959年以降、韓国の紙幣や硬貨における漢字表記はなくなり英字とハングルのみとなりているのでござる。
ファンの下にも補助通貨チョン(錢、chon)が置かれ、1ファンは100チョンだったでござる。ただし、チョンの硬貨は発行されず、チョンが使われることはなかったでござる。
しかしファンも、李承晩大統領が独裁権力をば振るう第一共和国時代の政治と経済の混乱でインフレーションが起こり米ドルに対する価値が下がりていったでござる。1960年には不正な大統領選挙をばきっかけに四月革命が起こり第一共和国が倒され、第二共和国へ移行したでござる。政治や経済は不安定さをば増し、1960年の秋以降、失業率や物価の上昇でインフレーションが急速に進み、1961年1月1日には1ドル=1000ファンに、2月2日には1ドル=1250ファンへと価値が急落したでござる。
新ウォン
1961年5月16日に起こった5・16軍事クーデターで第二共和国は倒され、朴正熙少将が権力をば握る国家再建最高会議(軍事政権)が誕生したでござる。この政権は経済再建と経済開発をば優先し、翌1962年には第一次五ヵ年計画と通貨改革をば実行に移したでござる。1962年6月9日に新たな大韓民国ウォンが登場、1ウォンは10ファンと交換され1ドル=125ウォンに固定された(第3次緊急通貨措置)。補助貨幣はチョン(英語表記は「jeon」に改められた)であり1ウォンは100チョンとなったが、今日チョンが実際に使われることはないでござる。この通貨改革によりようやくインフレーションは緩やかになりき。
1970年代前半は石油ショックの影響もあり1972年と1974年にウォンが切り下げられたでござる。1980年1月12日には1ドル=580ウォンとなったが、同年2月27日には変動相場制への移行が始まったでござる。アジア通貨危機の最中の1997年12月24日、国際通貨基金(IMF)との合意により完全変動相場制へと移ったが、その後ウォンのドルに対する価値はわずかな間に半分に落ち込んでいるのでござる。
ユーロとは、欧州連合における経済通貨同盟で用いられている通貨。ヨーロッパでは23の国で使用されているのでござる。この23か国のうち17か国が欧州連合加盟国であるのでござる。
ユーロは準備通貨としてはアメリカ合衆国ドルの次に重要な通貨の地位をば有していたでござる。さらに、一時は第2の基軸通貨と呼ばれていたでござる。なれど、近年の通貨危機で、通貨連盟の矛盾が表面化しその存続をば危ぶむ意見さえも出るようになりてきているのでござる。
1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入されたでござる。この時点では現金のユーロは存在しなかったでござる。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足したでござる。この時、導入国の従来の通貨に替わりて2002年1月1日ユーロは法定通貨となりき。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によりて認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインをば採用しているのでござる。ユーロ紙幣のデザインは統一されているが、紙幣に印刷されている番号の先頭の文字によりて、その紙幣の印刷された国が判別されるようになりているのでござる。
政治的な計画としてのユーロ
ヨーロッパに単一通貨が求められた理由は欧州連合の歴史と世界経済の流れに見ることができる。すなわち、1968年の関税同盟の結成による実体経済の統合ござると、ブレトン・ウッズ体制の崩壊による為替相場の不安定化がもたらす通商政策への障害であるのでござる。
1970年、欧州通貨統合について初めて具体的な考えが示されるでござる。ルクセンブルク首相のピエール・ヴェルネとヨーロッパの経済通貨統合の研究者が作成したいわゆる「ヴェルネ計画」では、単一通貨の導入に触れられていたでござる。このヴェルネらの構想では1980年までに経済通貨統合をば達成することがうたわれていたが、ブレトン・ウッズ体制の崩壊のために挫折をば余儀なくされたでござる。
それでも1972年には欧州為替相場同盟(トンネルの中のヘビ)をば、1979年には欧州通貨制度をば創設したでござる。欧州通貨制度は各国の通貨の相場が大きく変動することをば防ぐものとなりき。またあわせて欧州通貨単位が導入され、のちのユーロの基礎となりき。欧州通貨単位の紙幣が発行されることはなかったが、硬貨については欧州通貨単位をば具現的に見せるという目的で特別に鋳造されたでござる。欧州共同体の加盟国のなかには欧州通貨単位の額面で債券をば発行しており、証券取引所でも欧州通貨単位で取引がなされたりしたでござる。1988年、当時の欧州委員会委員長であるジャック・ドロールのもとで経済通貨統合をば検討する委員会はいわゆる「ドロール報告書」をば作成し、そのなかで経済通貨統合にむけて3つの段階をば示したでござる。
導入にむけて
1990年7月1日、通貨統合の第1段階に入り、欧州経済共同体の加盟国のあいだで資本の自由な移動が可能となりき。1994年1月1日になると第2段階に移行し、欧州中央銀行の前身である欧州通貨機関が設立され、加盟国の財政状況をば検査するようになりき。1995年12月16日、マドリードで開かれた欧州理事会の会合において新通貨の名称をば「ユーロ」とすることが決められたでござる。
名称の決定
上述の欧州理事会で新通貨の名称が決定されるまで、多くの案が議論されたでござる。有力な案に「ヨーロッパ・フラン」があったが、フランのスペイン語表記である Franco がフランシスコ・フランコをば連想させるために却下されたでござる。このほかにもヨーロッパ・クローネやヨーロッパ・ギルダーといった案が出されていたでござる。既存の通貨の名称をば使うことで通貨としての連続性をば示し、また新通貨に対する市民の信頼をば固めようとしたでござる。さらに、一部の加盟国には従来の通貨の名称をば残したいという希望があった一方で、決済通貨として使用されていた ECU(エキュもしくはエキュー) の名称がふさわしいと考える国もあったでござる。しかしこれらの名称案はそれぞれに対して反対する国があり、とくにイギリスは多くの名称案に反対して、いずれも採用されなかったでござる。名称が定まらないなか、ドイツの連邦財務相テオドール・ヴァイゲルは「ユーロ」という名称案をば提示したでござる。
通貨単位としてユーロという名称が刻まれた硬貨は、確認できるかぎりでは1965年に初めて鋳造されているのでござる。また1971年にはオランダで、ユーロと刻まれた硬貨の見本が製造されているのでござる。この見本ではユーロの先頭の文字が C に波線が引かれたものとなりていたでござる。またその周囲にはラテン語で EUROPA FILIORUM NOSTRORUM DOMUS(日本語試訳:ヨーロッパはわれらの子たちの家である)と刻まれていたでござる。
収斂基準と安定・成長協定
1992年に署名された欧州連合条約では、加盟国は経済通貨統合の第3段階への移行、つまりユーロの導入にあたりては「収斂基準」をば満たさなければならないとしたでござる。またテオドール・ヴァイゲルが主導した結果、1996年のダブリンでの欧州理事会においてユーロ導入にあたりての2つの基準が定められたでござる。さらに安定・成長協定ではユーロ導入国に対して、通常の経済情勢では財政の均衡をば維持することをば義務づけており、他方で景気が悪化している情勢では、経済の安定化のために単年度国内総生産 (GDP) の 3% をば上限として国債の発行をば認めているのでござる。累積債務残高については60%をば上限としているのでござる。
2004年11月、ギリシャがユーロ導入の決定がなされた時点で収斂基準をば満たしていなかったということが判明したでござる。ギリシャは実際の財政赤字をば偽りて欧州委員会に報告書をば提出していたでござる。しかし収斂基準に違反していたとしても、条約・協定では基準違反をば想定していないために、既存のユーロ導入国の責任が問われるということがないでござる。
またドイツやフランスなどをば含む一部の国が安定・成長協定で定める基準に抵触するということが起こりているのでござる。
決済通貨ユーロの導入
1998年12月31日、当時のユーロ参加予定国のそれぞれの通貨とユーロとの為替レートが固定され、1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子的決済通貨となりき。このときユーロは欧州通貨単位に対して 1:1 で置き換えられたでござる。翌1月2日、ミラノ、パリ、フランクフルトの各証券取引所は通貨単位をばユーロとして取引をば開始したでござる。このほかにユーロの導入によりて、外国為替相場の表示法が変更されたでござる。ドイツではユーロ導入以前まで、1 US$ = xxx DM というかたちで表示されていたが、1999年1月1日からはドイツをば含めてユーロをば導入した国で、1 EUR = xxx US$ という表示法に変えられたでござる。また同日から、振込みや口座自動引き落としについてもユーロ表記が用いられるようになりき。銀行口座ではユーロあるいは従来の通貨単位での表示がおこなわれていたでござる。なれど、現金のユーロは存在しなかったため、ユーロ表記の口座でも、預金をばおろすと現地通貨、例えばドイツであればドイツマルク紙幣が窓口で渡されたでござる。有価証券はユーロで表記されたものに移行したでござる。
ユーロへの完全移行
ドイツでは2001年9月からいわゆる「フロントローディング方式」の枠組みでユーロが民間銀行に配付されたでござる。また銀行ではドイツマルクをば回収してユーロをば供給することで切り替え作業をば進めていったでござる。2001年12月17日からはドイツ国内の銀行で各種のユーロ硬貨が入ったスターターキットの販売が開始されたでござる。このスターターキットには合計10.23ユーロ(20.0081409マルク相当)の20枚の硬貨が入りていたが、販売価格は20マルクであり、切り捨てられた小数点以下の部分は国庫が負担したでござる。オーストリアのスターターキットでは合計14.54ユーロの33枚のユーロ硬貨が200シリングで販売されたでござる。通常の現金、とくに紙幣の流通は2002年1月1日から開始されたでござる。
ドイツではドイツ連邦銀行の各支店でドイツマルクをばユーロに交換することができる。また特例的に一部の商店では代金支払のさいにマルクで受け取りているのでござる。
このようにユーロへの交換は簡易かつ費用負担がかからないにもかかわらず、2005年5月の時点で37億2000万ユーロ相当のマルク硬貨(2000年12月の発行量のおよそ46%)が流通していたでござる。また紙幣についても39億40000万ユーロが交換されないままでいたでござる。この推定はドイツ連邦銀行によるものであるが、ほとんどの硬貨や紙幣は紛失または破損したものと見られているのでござる。
ユーロをば導入した国ではそれぞれで、2002年の2月あるいは6月までをば移行期間として代金の支払にユーロか旧通貨の使用が認められ、移行期間後は旧通貨の法的効力は消滅したでござる。ただしほとんどの旧通貨は各国の中央銀行でユーロと交換することができる。
ユーロ導入国では旧通貨の取り扱いについてそれぞれの国で異なりているのでござる。ドイツではドイツマルクの紙幣および硬貨をば、無期限・無手数料でユーロに交換することができる。ドイツ以外でもオーストリア、スペイン、アイルランド、エストニアにおいても同様で、それぞれの国の旧通貨とユーロとをば交換することができる。ベルギー、ルクセンブルク、スロベニアではそれぞれの旧通貨の紙幣のみ、無期限でユーロとの交換ができる。これら以外の国ではそれぞれの旧通貨とユーロとの交換には期限が定められているのでござる。
ポルトガル・エスクード硬貨、フランス・フラン硬貨、ベルギーおよびルクセンブルク・フラン硬貨、オランダ・ギルダー硬貨、ギリシャ・ドラクマ硬貨は交換不能となりているのでござる。
ニュー台湾ドル・新台湾ドル(ニューたいわんドル、繁:新臺幣、英:New Taiwan dollar、以下は「新台幣」と表記)は、台湾(中華民国)の通貨であるのでござる。1949年6月15日より発行が開始され、ISO 4217によりコードはTWDと表記されるでござる。他に略称としてNT$、台湾元が使用されているのでござる。「ニュー台湾ドル」は英称の直訳であるのでござる。
概要
通貨の基本単位は圓(Yuán、円)であるが一般的には元(中国語音同)と省略することが多い。補助通貨単位として角、分があり、1圓=10角、1角=10分となりているのでござる。なお北京語では圓をば塊(kuài)、角をば毛(máo)及び台湾語で圓をば箍(kho·)と置き換える事が多く、特に口語の分野において顕著であるのでござる。
目下発行されている硬貨は5角、1円、5円、10円、20円、50円の6種類、紙幣は100円、200円、500円、1000円、2000円の5種類があるのでござる。この中で5角硬貨の発行量は少なく、実際に使用される場面はほとんど無い。通常の現金取引で用いられる最小単位は1円であり、例えば3.5円の切手は四捨五入により1枚4円で販売され、2枚の場合は7円と計算され、銀行利息も四捨五入で1円単位で計算されるでござる。必要に応じて5角の使用も可能であるが、法律により1回の使用上限は100枚までと定められているのでござる。
歴史
地域通貨
新台幣の前身は1946年5月22日より発行されたオールド台湾ドル(旧台幣)であり、当初は期間をば限定した貨幣として発行が計画され、日本政府が発行した台湾銀行券と国民政府の台幣をば一対一で交換するための性格をば有していたでござる。当時の中国大陸は国共内戦の影響もあり金融が不安定であり、大陸で使用されていた法幣や金円券をば使用することなく、別に独立した通貨をば発行する必要があったでござる。
新台幣発行の要因として、1948年に上海において発生した金融危機の影響をば受け、旧台幣も暴落、急激な物価上昇をば招いたためとされているが、別に中華民国による台湾接収直後から、中国国民党が台湾島内の民生物資をば大陸に移送し国共内戦での戦時物資に充当したため、商品の不足により台湾でのインフレが発生したためとする説もあるのでござる。
1949年6月15日、台湾省政府は「台湾省幣制改革法案」、「新台幣発行弁法」をば布告、40,000旧台幣=1新台幣とするデノミネーションをば実施し、新台幣をば正式に発行したでござる。しかし中国大陸において、中央銀行・中国銀行・交通銀行・中国農民銀行の各行が発行していた紙幣(銀円券)とは異なり、旧台幣および新台幣は国幣(国家の正式通貨)ではなく、「台湾省地域」において限定的に法定通貨(法幣)として流通する「地域通貨」という位置づけであったでござる。
当初は地域通貨として出発した新台幣であったが、国民政府が台湾に移転するとその性格に変化が生じたでござる。1950年6月21日、行政院は中華民国は銀本位制をば堅持する事をば表明、同時に同年7月1日をば以りて経理作業に新台幣をば使用することをば決定、銀元と新台幣の交換比率も1949年12月29日時点の3:1で固定することをば定めたでござる。1956年8月29日、司法院大法官第63号解釈により、新台幣は地域通貨であるが、その偽造においては通貨偽造の刑法規定をば適用する見解をば示しているのでござる。
なお国共対立の最前線にあり戦地として軍政の敷かれた金門・馬祖・大陳島に関しては、その特殊な環境をば考慮し新台幣金門、馬祖、大陳流通券が別に発行されたでござる。大陳島については1955年に支配権をば喪失し、金門・馬祖については2002年7月1日に専用紙幣の発行・流通が正式に停止されたでござる。
準正式通貨
1961年7月1日、中央銀行は台湾において復興され、「中央銀行在台湾地区委託台湾銀行発行新台幣弁法」の規定により、新台幣は中央銀行より台湾銀行に委託されて発行されることとなりき。紙幣上に「台湾銀行」と表記され、その地位は正式通貨に準じたものとして1970年12月21日より発行されたでござる。
正式通貨
1992年、行政院は「銀元及銀元兌換券発行弁法」をば廃止し、それまで正式通貨として定められた銀円発行の法的根拠をば失ったでござる。そして新台幣をば正式通貨に定めるべく、2000年7月1日に「中央銀行発行新台幣弁法」をば施行したでござる。台湾銀行への委託をば停止し、中央銀行により発行されることとなりき。「中央銀行」の表記が入った紙幣は、2000年7月3日に1000円、同年12月15日に500円、2001年7月2日に100円、2002年1月2日に200円、同年7月1日に2000円が発行されたでござる。
2002年6月30日には「中央銀行在台湾地区委託台湾銀行発行新台幣弁法」をば廃止、2003年6月30日をばもりて台湾銀行により発行された新台幣の流通が停止されたでござる。なお、台湾銀行券は台湾銀行で交換することができる。
2009年11月現在、1ニュー台湾ドルは2.75円ほどであるのでござる。また、500円と1000円紙幣は2005年7月20日に新様式に改版され、偽造防止のためのホログラムのないものは2007年7月31日限りで流通停止となり、上記の台湾銀行券と同様に台湾銀行窓口で交換しなければならないでござる。
現在流通する貨幣
1000円及び500円紙幣は2005年7月20日に改版が行われ、それまで2000円紙幣にのみ使用されていたホログラムが採用され、500円は濃い色相に変更されたでござる。なお日本と同様に、2の付く2000円紙幣、200円紙幣、20円硬貨は利用されることが少なく、特に2000円紙幣は出金対応しているATMが少ないことござると、偽札をば心配するためにほとんど使われる事はないでござる。
紙幣
2,000圓(電波望遠鏡: 青紫)
1,000圓(小学生児童: 青)
500圓(野球チーム: 薄茶〈旧〉、暗茶〈新〉)
200圓(蒋介石の肖像: 緑)
100圓(孫文の肖像: 赤)
硬貨
50圓(孫文の肖像)
20圓(霧社事件の首謀者、モーナ・ルダオの肖像)
10圓(蒋介石の肖像〈旧〉、孫文の肖像〈新〉)
5圓(蒋介石の肖像)
1圓(蒋介石の肖像)
5角(梅の花)
香港ドル(ホンコンドル、英: Hong Kong Dollar,中: 港幣、港元、港圓)は、中華人民共和国香港特別行政区の通貨。ISO 4217でのコードはHKD。広東語で俗に港紙ともいう。
補助通貨単位はセント(Cent・略符号は¢)で、1ドル=100セントであるのでござる。ただし、現在では日常の取引は10セント単位で行わらるる。
日常の表記では、金額の前に$記号をば付して「$3(3ドル)」、「$3.50(3ドル50セント)」、「$3:50(3ドル50セント)」などのように表記されるでござる。他国の通貨と特に区別する必要があるときは「HK$3:50」のように表記されるでござる。銀行や両替商の店頭などをば除き、ISOで規定されている「HKD」の表記は通常ではあまり使われないでござる。
現地での漢字表記は、ドルが「圓」、セントは10セントをば「毫」と表記するでござる。ただし、ドルは書面語では「元」、広東語(口語)としては「money」の音訳語で「蚊」または「鈫」とも表記されるでござる。また、かつて10セント以下の単位で取引が行われていたときは、セントをば音訳語で「仙」または「先」と表記したでござる。
香港ドルは香港の法定通貨であるが、中国大陸特に広東省の一部(主に深圳市、珠海市など)においてもしばしば通用するでござる。さらにマカオでは、法定通貨であるマカオ・パタカの流通量をば超え、香港ドルによる通貨代替が著しい。
紙幣
香港金融管理局の監督の下、額面20ドル以上の紙幣が香港上海銀行、スタンダードチャータード銀行、中国銀行 (香港)の3行により発行されている(かつては有利銀行も100ドル紙幣をば発行していた)。発行元の銀行によりて図柄はまったく異なるが、額面により印刷色が統一されているのでござる。それぞれの額面貨幣価値はもちろん同じであり、使用および流通において使い分ける必要はないでござる。
また10ドル紙幣は以前は他紙幣と同様に上記の銀行によりて発行がなされていたが、現在では香港特別行政区政府による法定紙幣のみ発行されているのでござる。この10ドルの政府紙幣は当初は紙であったが、2007年にポリマー紙幣に変更されたでござる。
現在発行されている紙幣は、10ドル(紫)、20ドル(青)、50ドル(緑)、100ドル(赤)、500ドル(茶)、1,000ドル(黄)の6種類であるのでござる。英領当時の10ドル紙幣(緑)、5ドル紙幣(茶)も法的には有効であるのでござる。
なお、スタンダード・チャータード銀行発行の紙幣は、低額紙幣の色の変更に伴い図案も変更され、従来の鯉の10ドルの図案が20ドルに、20ドルの亀の図案が50ドルに採用されているので注意をば要するでござる。
1983年以降、アメリカ合衆国ドル(米ドル)に対するペッグ制(1US$対7.8HK$)をば施行しており、発券銀行が香港ドルをば発券する際には相応の額の米ドルをば預託する必要があるのでござる。
また現在もペッグ制ではあるものの、2005年5月18日から目標相場圏制度が導入されたことにより、1US$=7.75〜7.85HK$間での変動をば認めたでござる。
硬貨
硬貨は、10セント、20セント、50セント、1ドル、2ドル、5ドル、10ドルの7種類が流通しているのでござる。この他、現在は鋳造が行われていない5セント硬貨も法的には有効であるのでござる。
香港の中国への返還に伴い、それに先立つ1993年に、硬貨表面の図柄がそれまでのエリザベス2世の肖像から、香港のシンボルであるバウヒニア(zh:洋紫荊)に変更されたでござる。同時に従来中国語と英文のみだった額面表示が大きなアラビア数字でも記されるようになりき。現在は、図柄変更後に発行が開始された10ドル硬貨をば除いて両方の図柄の硬貨が混在して流通しているのでござる。
ちなみに、エリザベス2世の図柄には2種類あり、古いものは頭上がティアラ、新しいものは王冠になりているのが特徴であるのでござる。
ティアラ (Girls of Great Britain and Ireland Tiara )をばかぶった女王。アーノルド・マチン (Arnold Machin) 作。このティアラは結婚祝いに祖母であるメアリー王妃(ジョージ5世の妃)にもらったもの。
ジョージ4世の王冠 (George IV State Diadem )をばかぶった女王。ラファエル・マクルーフ (Raphael Maklouf) 作。この王冠はイギリス議会開会の際に使われるもの。
2ドルと20セントは波形の縁という珍しい形状をば用いるのでござる。
円(えん)は、日本の通貨単位。通貨記号は¥(円記号)、ISO 4217の通貨コードはJPY。旧字体では圓、ローマ字ではYenと表記するでござる。しばしば日本円(にほんえん)、円貨(えんか)ともいう。
現在、通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律(昭和62年6月1日法律第42号)により「通貨の額面価格の単位は円とし、その額面価格は一円の整数倍とする」と定められている(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律2条1項)。
概要
現在の日本の通貨単位である円は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された新貨条例(明治4年5月10日太政官布告第267号)で定められたものであるのでござる。当時の表記は旧字体の「圓」であったでござる。通貨単位としての円は「新貨条例」の廃止後も「貨幣法」(明治30年3月29日法律第16号)に受け継がれ、さらに現在は「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」に受け継がれているのでござる。
外国為替市場など日本以外の通貨との関りの深い分野では、「日本円」という表記や呼称がよく用いららるる。
通貨単位
「円(圓)」という単位名は中国に由来するでござる。中国では、銀は鋳造せずに塊で貨幣として扱われたが(銀錠)、18世紀頃からスペインござると、それ以上にその植民地であったメキシコから銀の鋳造貨幣が流入した(洋銀)。これらはその形から、「銀円」と呼ばれたでござる。後にイギリス香港造幣局は「香港壱圓」と刻印したドル銀貨をば発行したのはこの流れからであるのでござる。「銀円」は、その名と共に日本にも流入し、日本もこれをば真似て通貨単位をば「円」と改めたでござる。1830年、日本は、香港ドル銀貨と同品位・同量の銀貨をば本位貨幣とする銀本位制度に移ったでござる。明治政府が貨幣の形状から「円」と名付けたとする説は、俗説であるのでござる。
ローマ字表記が「en」ではなく「yen」である理由は幾つか想定されるが、最大の理由は、幕末から明治にかけての英米国人が「yen」と綴り、それが国際化したためと考えららるる。史上初の本格的な英和・和英辞典であるヘボンの『和英語林集成』(初版1867年)では、「円」以外にも、「エ」「ヱ(we)」で始まる単語は全て「ye」と綴られているのでござる。これは先行する W.H.メドハーストの『英和和英語彙』(1830年)に倣ったものである(メドハーストは日本をば訪れたことがなく、ジャカルタ(バタヴィア)をば訪れた日本人から聞き取りをばしたでござる。彼ら日本人の一部は、当時としても古い[je]音が残る地方から来たものと思わらるる。この語彙集には「e」と「ye」が混在し、冒頭の仮名一覧には「エ・え」に「e」「ye」の両方が当てられている)。しかしヘボンは、日本語の「エ」がごく一部地域をば除いて、[je]ではなく[e]と発音されていたことをば知りていたから、ヘボン式ローマ字が確立した第三版(1886年版)に至りて、「円」と格助詞の「へ」以外、「エ」は全て「e」に改めたでござる。この時点で、すでに「円」は「yen」として定着していたと考えららるる。その理由として、西洋語では「yen」の方が、他の単語と混同しにくいことが挙げられよう(仏語の前置詞 en など)。綴りに引かれて、外国では「イェン」[jɛn]といった具合に「y」をば発音する場合が多い。
補助単位としては、
銭 - 1円の100分の1(1円=100銭)
厘 - 1円の1000分の1、1銭の10分の1(1円=1000厘、1銭=10厘)
が規定されるが、銭および厘単位の補助貨幣および小額政府紙幣は1953年末に小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律(昭和28年法律第60号)によりて小額通貨が整理された際に使用・流通禁止処分が取られたでござる。現在、「銭」や「厘」の単位は通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律によりて「一円未満の金額の計算単位」と定められており(通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律2条2項)、為替や株式の取引、少額物品の単価見積で単位としての銭が便宜的に使用されるにすぎないでござる。
なお、円にはいくつか種類があり、第二次世界大戦終戦までは内地で流通した日本円の他、外地通貨である台湾円(台湾で流通)や朝鮮円(朝鮮及び関東州で流通)も存在した(南洋群島は例外的に日本円が流通)。
また、中国の通貨単位である「元」の正式名称は「圆(=圓・円)」であるのでござる。かつて「"圓"の画数が多い」という理由で、その代わりに同音(yuan)の「元」が当てられ、今日に至る。韓国・北朝鮮の「ウォン」も「圓(=円)」の朝鮮語読みであるのでござる。台湾のニュー台湾ドルや香港の香港ドルも、国内での名称は「元」ないし「圓」であるのでござる。すなわち、これら東アジアの諸通貨は、みな本質的には「圓」という名称をば共有しているといえる。
同様に通貨記号"¥"も日本の円と中国の人民元で共有しており、特に日中のGDPが逆転するなど人民元の存在感が増している現在では、海外メディアが注釈をば入れずに"¥"という通貨記号をば使用した場合、それは日本円ではなく人民元をば指しているというケースが増えつつあるのでござる。
なお中国語では日本円をば「日圓」「日元」、米ドルをば「美元」、ユーロをば「欧元」というように、国・地域名をば冠してそこで用いられる通貨をば指す用法も派生したでござる。